ポイント
- 日本政府は交渉相手をラトニック商務長官に絞り、関税交渉ではなく「投資協議」の名目で対話を重ねた。
- 日米協議における「投資スキーム」は日本の政府系金融機関が関与していることが特徴。他国と比べて、日本の政府や企業にとって有利なディール。
- 日本は官民挙げて「投資スキーム」の合意履行を。経済安全保障での日米連携を強め、同盟深化を目指すべき。
日米両政府は9月4日、日本に対する米国の自動車関税引き下げと相互関税の修正などで合意に至った。約5カ月にわたる交渉は紆余曲折がありながらも、自動車関税を27.5%から15%に引き下げ、相互関税の税率負担を減らす特例措置を適用するとの大統領令をトランプ大統領が出すことで決着した。しかし、この合意について、「令和の不平等覚書」(立憲民主党の高木真理氏)といった批判が野党やメディアの一部からは出ている。中でも批判が強いのが、5500億ドル(約80兆円)の対米投資である。この合意はどのような経緯で締結されたのか。本当に日本にとって不利なのか。欧州連合(EU)や韓国などと比べてどのような違いがあるのか。日本の政府や企業にとってどのような含意があるのか。本稿では、日米両政府の当局者の証言を元に、客観的な評価をしていきたい。
交渉の内幕/日本政府の「ばくち」
石破政権下で対米交渉を担った赤沢亮正経済再生相は当初、ベッセント財務長官、ラトニック商務長官、そしてグリア通商代表部(USTR)代表の3人と交渉を重ねた。だが、ベッセント氏が5月11、12両日、スイス・ジュネーブで中国の何立峰副首相と協議を始めた。このため、日本側はベッセント氏との面会の約束が入りづらくなっており、赤沢氏の3回目の訪米となる5月23日、ラトニック氏と約90分、グリア氏と約120分それぞれ会談をすることになった。だが、グリア氏との会談で想定外の事態が起きた。トランプ政権の経済官僚の一人が語る。
「グリア氏が最も日本側に求めていたのが米国産のコメを中心とした農作物の購入拡大だった。第1次トランプ政権ではライトハイザー代表の側近として日本政府と交渉した日米貿易協定にコメが入らなかったことを後悔しておりこだわりが強かったからだ。しかし、日本側は交渉の場に日本の農水省の担当者を同席させておらず、赤沢氏もコメの輸入増を強く拒否した。これに対し、グリア氏が強く反発して、会合は事実上決裂した」
森山裕幹事長を始め、「農水族」の幹部が名を連ねる石破政権は、米国との交渉のテーブルにコメを乗せることには否定的だった。特に7月の参院選を控え、自民党の支持基盤の一つである農業従事者の投票への影響を懸念し、態度を硬化させていた。一方、対日交渉においてコメを最重視するグリア氏との交渉は、出発点からすれ違っていた。
交渉が暗礁に乗り上げた日本側は戦略の立て直しに迫られた。交渉相手をラトニック氏に絞り、関税よりも投資に重点を移す交渉に軸足を移した。経済安全保障分野において、日本の政府系金融機関が出資や融資をする投資スキームをつくり、ラトニック氏に提案した。前出のトランプ政権の経済官僚は説明する。
「トランプ大統領が掲げる製造業の復活を実現したいラトニック氏は、日本の投資パッケージを歓迎した。特に、市場よりも金利が低い日本の国際協力銀行(JBIC)による融資に魅力を感じていたようだ」
日本の「ばくち」ともいえる戦略変更は奏功した。ワシントンで9月4日、赤沢氏とラトニック氏は約5500億ドルの投資に関する覚書に署名した。あわせて、日本から輸入する乗用車の関税率を従来の27.5%から15%に引き下げるほか、「相互関税」については、従来の関税率が15%以上の品目には関税上乗せをせず、15%未満だった品目は一律15%とすることで、日本の負担を相対的に軽減する大統領令にトランプ氏が署名をした。
「投資スキーム」の仕組み
日米両国が合意した「投資スキーム」について、日本では否定的な見方が多いようだ。その中身について、覚書や両国政府当局者の証言を元に分析する。
【出資・融資】
この投資スキームにおいて米国側は、プロジェクトごとに特別目的会社(SPC:Special Purpose Company)を創設する。プロジェクトの例としては、レアアース鉱山開発、半導体工場建設、船舶の補修拠点の確保・運営、高速通信規格「5G」の展開、ガス開発といった経済安全保障に関する分野が対象となる。覚書では、プロジェクトの成功に向け、以下のような支援に対して米国側が便宜を供与するとの記載がなされている。具体的には、オフテイク契約(供給者と購入者の間で、供給者が提供する予定の商品・サービスの全部または一部を購入または販売するための取り決め)、電気、ガス、水道などのインフラ整備、土地の提供、規制緩和などである。なお、プロジェクトの対象には、日本企業がサプライヤーにぶら下がっている第三国企業の対米投資なども含まれるとされる。
一方、当スキームにおいてはプロジェクトごとにファンドが創設され、当該ファンドが上記SPCに出資する。各ファンドには、日本の国際協力銀行(JBIC)による出資または融資、民間企業(主に金融機関)による融資、および日本貿易保険(NEXI)による融資保証を通じて資金の提供がなされる。
【回収】
各プロジェクトのSPCは、日本側、米国側に配当を支払う。ただし、日本側が行った融資の返済が完了するまでは日本側、米国側に配当が5:5の割合で分配され、日本側はこの配当を融資への返済に充てる。日本側が行った融資の完済後、配当は日本側1、米国側9の割合で分配される。
なお、これら一連の契約に法的拘束力はないが、両国の法令には抵触しないことが条件とされている。つまり、JBICとNEXIが融資する場合、日本企業がプロジェクトに関与していることが条件となる。プロジェクトに直接関与していない場合であっても、部品を提供したり、プロジェクトから産出される資源を利用したりする場合も含まれる。
「投資スキーム」の評価と日本企業への含意
この「投資スキーム」については、トランプ大統領の思惑によって採算が見込めなかったり日本側への利益が少ないプロジェクトなどを押し付けられるのではとの懸念もある。だが、覚書では「両国の法令には抵触しない」という条項が盛り込まれており、日本側にとって不利なプロジェクトに投資するリスクが回避されることになる。
JBICなど政府系金融機関はこれまで、主に新興国や途上国におけるプロジェクトへの投資や融資を対象としていた。今回の投資スキームにより比較的リスクが低い米国のプロジェクトも対象となったことで、米国に投資を検討している日本企業にとってメリットは大きい。さらに、覚書では、米側によるインフラ整備や規制緩和の便宜供与、そして売れ残った製品や産品を買い取るオフテイク契約が盛り込まれたことで、日本側の支出やリスクを抑えることができる。
また、今回の両政府の合意では、日本以外の国の企業が米国に投資するプロジェクトであっても、日本企業が少しでも関わっていれば出資・融資の対象となったことも重要である。たとえば、台湾の大手半導体メーカーTSMCが米国に投資する場合にも、日本側が投資できるようになるからだ。
あわせて今回の日米合意を他国のケースとも比較してみたい。日本以外の主要国は、USTRと関税交渉を重ねてきた。ラトニック氏と比べて強硬派といわれるグリア代表は、各国に対して関税面での厳しい要求をしてきた。日本以外の主要国は、USTRと関税交渉を重ねてきた。ラトニック氏と比べて強硬派といわれるグリア代表は、各国に対して関税面での厳しい要求をしてきた。
たとえば欧州連合(EU)は、米国産のすべての工業製品の関税を撤廃し、乳製品など米国農産品の輸入拡大で大幅に譲歩を迫られたうえで、6000億ドル(約89兆円)の対米投資を約束した。これは、日本のように政府系金融機関ではなく、民間主導によるものだ。これほど巨額な投資を民間だけで実行できるかは不透明である。
さらに厳しいのが、韓国である。当初、EUと同じくUSTRと交渉をしてきたが、途中から日本のように商務省とも協議をした。その結果韓国は、米国製の自動車やトラック、米国産の農産品などを受け入れるほか、液化天然ガス(LNG)などのエネルギー製品を1000億ドル(約15兆円)購入することになった。さらに、トランプ氏が選んだ米国が所有、運営する投資プロジェクトに3500億ドル(約51兆円)を投資する方向で協議を進めている。日本とは異なり、トランプ氏の思惑や米国側に有利なプロジェクトを韓国企業が押し付けられるリスクをはらんでいる。そして、EUと同様に、民間企業による投資が進めば進むほど、自国の産業の空洞化が進む恐れがある。
こうして他国と比較してみると、日米合意は日本の政府や企業にとって、損失やリスクが最小限に抑えられた合意といえる。対米投資や進出を検討している日本企業にとっては追い風になるだろう。
一方でリスクもある。「日本が覚書を誠実に履行し投資額について資金提供を怠らないでいる間、米国は日米合意で対象となった品目の関税を引き上げる意図を持たない」という条項が入った。つまり、トランプ氏が「日本は合意を守っていない」と判断すれば、再び追加関税を課される可能性がある。
日本は今後、官民が協力して合意を着実に履行していくことが求められる。そのためには、中国が寡占を進めているレアアースや造船、燃料電池といった経済安全保障分野における米国との協力を深化させることで同盟強化につなげつつ、日本企業の利益にもつなげていくという発想を持つことが重要だと筆者は考える。
(c) Molly Riley/White House/ZUMA Press/amanaimages