Report Top |

暗号の2030年問題:米大統領令が加速させる耐量子計算機暗号への移行

ポイント

  1. 2026年6月の米大統領令は、耐量子計算機暗号への移行を制度面から加速させた。量子コンピュータ時代のセキュリティ・リスクに備えるべく、トランプ政権は連邦政府の一部重要システムに使う暗号の移行期限を2030〜2031年に設定し、各機関に責任者の指定と移行計画の策定を求めた。
  2. 米国は、政府調達と国際的な働きかけを通じて、米国発の耐量子計算機暗号の標準を産業界や各国に広げようとしている。その結果、一部の日本企業では、日本政府が掲げる2035年目標より前に、移行が必要になる可能性がある。
  3. 暗号には寿命がある。企業は、各国の制度や標準などが今後も変化し続けることを前提として、必要に応じて自社の暗号方式を柔軟に更新できる組織的な能力、すなわち「クリプトアジリティ」を高めることが求められる。

なぜ今、耐量子計算機暗号への移行が必要なのか

「暗号」と聞くと、情報システム部門が扱う技術の話だと思われがちである。しかし今、暗号は企業経営にも関わる課題になりつつある。

暗号は、電子契約、クラウドサービス、決済、製品やソフトウェアの認証など、企業の日常業務を支える「錠前」のようなものである。やりとりする相手が本物であること、情報が途中で盗み見られないこと、内容が改ざんされていないことを担保し、企業間取引やデータ流通に不可欠な信頼の基盤を形成している。

前回レポートで指摘したとおり、問題は、量子コンピュータの登場によって、現在広く利用されている公開鍵暗号の一部が解読される可能性があることである。また、暗号の移行には一定の時間を要するため、実際に脅威が顕在化してから対応するのでは遅く、量子コンピュータによるサイバー攻撃にも耐えられるよう設計された「耐量子計算機暗号(PQC)」への移行を、あらかじめ進めておく必要がある。

こうした技術上の必要性に加えて、PQCへの移行を制度面から加速させているのが、2026年6月に公表された米国大統領令である。同大統領令は、米国政府の一部重要システムについて2030~2031年の移行期限を設定するとともに、連邦政府調達にPQC対応を組み込む手続きを開始した。そのため、一部の日本企業では、日本政府が掲げる2035年という移行目標より前に対応が必要となる可能性がある。

量子コンピュータの登場によって現在の暗号に生じるリスク、PQC移行に時間を要する理由、米国国立標準技術研究所(NIST)によるPQCの標準化の動きについては、前回のレポートで整理した。本レポートでは、この米国大統領令によってPQC移行がどのように具体化されたのか、日本企業にどのような影響が及び得るのか、そして企業は何を基準に対応時期を判断すべきかを整理する。

米国はなぜPQC移行を加速させたのか

2026年6月22日の米大統領令は、PQC移行を長期的な方針から、具体的な期限や責任を伴う実行段階へ進めた。

米国では、NISTが2024年にPQCの標準を公表したほか、連邦政府は2035年までに量子リスクを可能な限り軽減するという長期的な目標を示し、暗号システムの棚卸しや移行準備を進めてきた。今回の大統領令は、こうした取り組みを一歩進め、「いつまでに」「誰の責任のもと」「どのような手続で移行するのか」を具体化した。

背景には、将来、敵対者が高度な量子計算能力を獲得した場合に、現在広く利用されている暗号が解読されるリスクがある。さらに、敵対者が暗号化された情報を今のうちに窃取・保存し、将来、量子コンピュータを使って解読するという脅威もある。こうしたリスクに備えるには、量子コンピュータによる暗号解読が現実の脅威となる前に、機密性の高い情報や重要インフラを保護する暗号をPQCへ移行させる必要がある。米国政府によるPQC移行の加速を後押ししたのは、こうした危機感であった。

なお、今回の大統領令は、同日に公表された量子技術の研究開発・実用化を加速する別の大統領令と併せて捉える必要がある。後者は、量子コンピューティング、センシング、ネットワーキングの研究開発や商用化を加速し、米国の技術的優位を維持するため、政府横断の量子戦略を更新するよう指示している。さらに、商用量子コンピュータの規模や性能の向上がPQC移行に及ぼす影響を含め、国家安全保障上の含意を検討することも求めている。米国政府は、量子技術の開発を加速すると同時に、その進展によって生じる暗号リスクへの備えも進めようとしている。

大統領令自体は中国を名指ししていないものの、米国では量子技術が米中間の戦略的な技術競争の一分野として位置づけられている。こうした政策文脈を踏まえれば、中国との技術競争も今回の政策強化の重要な背景の一つと考えられる。また、政権に近いシンクタンク関係者への聞き取りによると、大統領令の公表に先立ち、政権中枢では、量子技術の商用化や国際競争をめぐりビッグテック企業の専門家と意見交換を行ったとされる。

大統領令が示した4つの具体策

こうした背景のもと、大統領令ではPQC移行に向けた具体策が示された。主なポイントは4つある。

第一に、米国連邦政府の高価値資産(HVA)高影響システムについて、PQCへの移行期限を定めたことである。安全な通信に必要な暗号鍵の確立は2030年末まで、電子署名は2031年末までにPQCへ移行することが求められている。なお、国家安全保障システム(NSS)は、この期限の対象からは除外されている。

第二に、各連邦政府機関にPQC移行の責任者を置き、高価値資産と高影響システムの一覧を確認したうえで、優先順位を付けた移行計画を策定するよう求めたことである。暗号を「いつか誰かが更新する」のではなく、各機関の責任者を明確にし、計画的に移行を進める体制づくりが求められている。

第三に、連邦政府調達にもPQC対応を組み込む方針を示したことである。つまり、連邦政府機関のシステムを更新するだけでなく、政府に製品やサービスを納入する企業にも、契約条件を通じてPQC対応を求めていく方向性が示された。そのため、大統領令は連邦調達規則(FAR)の改正手続を開始し、対象となる政府契約事業者に対し、2030年末までに、PQC対応アルゴリズムを取り込んだものも含め、NISTの米国連邦情報処理標準(FIPS)に準拠することを求める規則案を180日以内に公表するよう指示している。

現時点で、政府契約事業者に新たな義務が直ちに課されたわけではない。対象となる契約や事業者の範囲、下請企業やサプライヤーまで要件が及ぶかどうかは、今後公表される改正案と、その後の最終規則によって明らかになる。

第四に、米国政府内の移行にとどまらず、外国政府や主要国の業界団体に対しても、NISTのPQC標準への移行を促す方針を示したことである。これは、米国が採用・制度化したPQC標準を、各国の政府や産業界にも広げようとする方向性を示している。ただし、各国や民間市場への普及の時期や範囲は、現時点では確定していない。

表1 米国におけるPQC標準化・移行の主要スケジュール

時期 内容
2024年 NISTが最初のPQC標準を公表
2026年6月 米大統領令を発出
→発出から180日以内 FAR改正案を公表するよう指示
2030年末 重要システムの暗号鍵確立をPQCへ移行
2031年末 重要システムの電子署名をPQCへ移行

出典:筆者作成。

このように、今回の大統領令は、米国連邦政府機関の重要システムについて具体的な移行期限を設け、各連邦政府機関の責任者の指定と移行計画を求めるとともに、連邦政府調達へのPQC対応の組み込みや、NIST標準の国外への普及を進める方針を示した。一方、政府調達における具体的な要件や対象範囲、日本企業を含むサプライチェーンへの影響は、今後のFAR改正や市場の対応を見極める必要がある。

こうした制度や標準の変化に対応するうえで重要になるのが、必要に応じて暗号方式を更新できる能力である。次節では、この能力がなぜ企業の経済安全保障に関わるのかを整理する。

なぜ暗号を更新する能力が経済安全保障上重要なのか

今回の大統領令をきっかけに、企業が考えるべきことは、PQCへの移行だけではなく、今後も安全性の評価や技術の進展に応じて暗号を更新し続けなければならない可能性があるということだ。

暗号には寿命がある。新しい暗号方式であっても、技術の進展によってその信頼性が突然失われる可能性がある。また、社会で広く利用されている暗号を安全な方式に移行するには長い年月を要する。このため、PQCへの移行は、一度限りのシステム更新としてではなく、将来の標準変更にも対応できる体制づくりとして捉える必要がある。

このように、必要に応じて暗号方式を更新できる能力を、「クリプトアジリティ」という。これは本来、暗号の安全性低下や技術の変化に対応するための組織的な能力である。しかし、暗号標準の変更が政府調達や製品仕様、契約条件に反映されるようになれば、システムの安全性だけでなく、取引継続や市場アクセスの問題にもなり得る。そのため、クリプトアジリティは、情報システム部門だけの技術的な課題ではなく、事業継続にも関わる経営上の課題となる。

米国は、NISTのPQC標準を政府調達へ組み込み、外国政府や主要国の業界団体にも移行を促している。こうした標準が、各国の制度や業界基準、調達仕様に取り入れられれば、対応の可否が市場アクセスや取引条件を左右し得る。その対応力は、企業の事業継続にも直結する。安全な暗号方式に迅速に移行できなければ、政府調達への参加や既存取引の継続が困難となり、製品・サービスの提供に支障が生じ、場合によっては、一部の事業を止めざるを得ない可能性もあるからだ。その意味で、クリプトアジリティは、企業の経済安全保障を支える重要な能力となる。では、米国のPQC政策は、日本企業にどのような影響を及ぼすのだろうか。

米国のPQC政策は日本企業にどう波及するのか

日本政府も、量子コンピュータの進展に伴い、現在の公開鍵暗号の安全性低下が予想されるため、PQC移行は急を要する課題であるとしている。そのうえで、政府機関等について原則2035年までにPQCへ移行することを目指し、2026年度中に具体的な工程表を策定する方針を示している。

ここで注目すべきは、対象範囲は異なるものの、日米のPQC移行をめぐる時間軸に差が生じていることである。前述のとおり、米国では一部の重要システムについて2030~2031年の移行期限が設定され、連邦政府調達へのPQC対応の組み込みも進められている。両国の期限を単純に比較することはできないが、今後策定される日本の工程表に、こうした米国の新たな時間軸がどのように反映されるかが注目される。

また、日本への波及を考えるうえでは、日米および日米韓の重要技術協力の動向も無視できない。日米は量子技術を含む重要・新興技術について、研究開発に加え、技術やサプライチェーンの保護を含む協力を進めている。日米韓の三か国も、2025年9月の政府間会合において量子エコシステムをめぐる脅威への対処方針について協議したほか、2026年7月の外相会合ではAIや量子等の重要・新興技術の保護と促進を含む、経済安全保障協力の進展を確認している。こうした政策協調の枠組みを踏まえると、米国の量子やPQC政策の変化は、日本にも波及し得る政策動向として捉える必要がある。

米大統領令は、現時点で一般企業に一律の移行期限や具体的な対応を求めているわけではない。しかし、表2に示すように、米国連邦政府調達への参加だけでなく、利用する製品・サービスの仕様変更や海外顧客・取引先からの要請を通じて、米国政府と直接契約していない日本企業にも影響が及ぶ可能性がある。具体的には、PQCへの移行状況の確認や、製品・システムの更新などが必要になる可能性がある。

表2 米国のPQC政策が日本企業に波及する主な経路

経路 影響を受ける可能性のある企業 想定される影響
政府調達規則の改正 米国政府と直接契約する企業、政府向け案件に部品・設備・ソフトウェア・保守サービスなどを提供する企業 契約条件として、FIPS準拠やPQC対応を求められる可能性がある
海外顧客・取引先からの要請 海外向けに製品・サービスを提供する企業、海外顧客や金融機関と取引する企業、グローバルなサプライチェーンに参加する企業 PQC対応状況の説明や、製品仕様・契約条件への対応を求められる可能性がある
製品・サービスの仕様変更 クラウド、ソフトウェア、ネットワーク機器、電子証明書などを利用する企業、取引先システムと接続する企業 対応製品への更新、接続確認、証明書や機器の交換などが必要になる可能性がある

出典:筆者作成。

政府調達上の具体的な要件や対象範囲は、今後のFAR改正によって明らかになる。また、PQC対応が製品・サービスの仕様や各国の制度、取引条件にどこまで広がるかも現時点では不透明である。このため企業は、FAR改正だけでなく、主要ベンダーや取引先の動向も継続的に確認する必要がある。

日本企業はいつPQC対応を始めるべきか

ここまでみてきたように、米国は量子リスクへの備えを、期限と政府調達を伴う実行段階へ進めている。一方、現時点で、すべての日本企業に直ちにPQCへの全面移行が求められているわけではない。企業にまず求められるのは、米国連邦政府調達や海外取引、利用する製品・サービスを通じてPQC対応を求められる可能性と、対応に必要な期間を把握することである。

これに加えて、研究開発情報や設計情報、医療・金融情報など、長期間にわたり機密性を維持する必要がある情報を扱う企業では、外部からの要請を待たず、将来の解読リスクに備えて自ら対応時期を判断する必要がある。

したがって、日本企業の対応時期は、(1)外部からPQC対応を求められる可能性と、(2)自社の情報やシステムを保護する必要性、という二つの観点から判断することになる。具体的には、前者については米国連邦政府調達との関係や海外顧客・取引先からの要請、主要ベンダーの移行計画などを確認し、後者については、長期間保護すべき情報の有無や、システム更新に必要な期間を踏まえて対応時期を検討することが重要である(表3)。

確認項目 確認する内容 対応時期の考え方
外部からPQC対応を求められる場合
米国政府調達との関係 米国政府と直接契約しているか、政府向け案件に製品、部品、設備、ソフトウェア、保守サービスなどを提供しているか FAR改正を確認し、契約先や取引先を通じて要件が及ぶ可能性を早めに確認する
海外顧客・取引先との関係 海外顧客、金融機関、取引先などから、FIPS準拠やPQC対応状況の説明を求められる可能性があるか 説明要請に備え、自社のPQC対応状況を整理しておく
製品・サービスの仕様変更 利用・提供するクラウド、ソフトウェア、ネットワーク機器、電子証明書などについて、PQC対応に伴う仕様変更の有無や、主要ベンダーの対応時期、対象バージョン、機器交換の必要性などが示されているか ベンダーの計画を継続的に確認し、自社の製品更新、システム更新、接続確認、証明書・機器交換などが必要になる可能性を確認する
自社の情報保護上の必要性がある場合
長期間保護すべき情報 研究開発情報、設計情報、医療・金融情報、個人情報など、将来まで機密性を維持する必要がある情報を扱っているか 情報を保護すべき期間と移行に必要な期間を踏まえ、早期に影響を確認する
更新に時間を要するシステム・設備 独自システム、長期間利用する設備、取引先と接続するシステムなどがあるか 更新、検証、接続確認、機器交換に必要な期間を逆算して、対応開始時期を検討する
製品開発・契約・調達への組み込み PQC対応を製品開発、システム更改、調達、契約更新などに組み込む必要があるか 次回の開発、更改、調達、契約更新の時期を確認し、対応の機会を逃さないようにする
対応の優先度を判断する体制 保護すべき情報やシステムについて、PQC対応の必要性や優先順位を誰が判断するか 情報の保護期間やシステムの更新時期などを踏まえて、担当部門または責任者と、次に判断を見直す時期・条件を定める

出典:筆者作成。

経済安全保障としてのクリプトアジリティ

量子コンピュータがいつ現在の暗号を破るのかを正確に予測することは難しい。しかし、米大統領令によって、PQC移行は具体的な期限や責任、政府調達を伴う実行段階へと進んだ。その影響は、政府調達、製品・サービスの仕様変更、海外取引などを通じて日本企業にも波及し得る。一部の企業では、日本政府が掲げる2035年という目標より前に移行が必要になる可能性もある。まずは、自社にどのような影響が及び得るのか、対応にはどれほどの時間が必要なのかを確認することが重要である。

暗号技術の安全性は、永続的に保証されるものではない。各国のPQC政策や暗号標準、製品仕様は今後も変化し続けるだろう。このため企業には、特定の暗号方式への移行だけでなく、制度や技術の変化に応じて必要な暗号方式へ柔軟に移行できる体制を整えておくことが求められる。PQC移行の本質は、新しい暗号方式に一度置き換えることではなく、必要なときに事業を止めずに暗号を更新できる状態をつくることにある。その意味で、クリプトアジリティは、企業の事業継続を支える経済安全保障上の能力として捉えるべきである。

(c) Official White House Photo by Joyce N. Boghosian

CONTACT

当センターに関するご相談・ご質問につきましては、以下よりお問い合わせください。
「電通総研 経済安全保障研究センター」事務局

g-dcer-office@group.dentsusoken.com

*お問い合わせの内容により、ご返答に時間を要したり、ご返答を差し控えさせていただく場合がございます。あらかじめご了承ください。