ポイント
- 日本企業の技術が株価で過小評価され、外資による買収リスクが増大している。
- 外為法だけでは防御が不十分で、同盟国資本の背後に懸念国資金が混入するリスクも存在し、出口管理の重要性が高まっている。
- 企業は経済安全保障を経営に統合し、国家も規制だけでなく企業育成や救済に責任を持つ必要がある。
MBKパートナーズ(MBK)による牧野フライス製作所(牧野)の買収断念。日本の企業支配権市場が、地政学と無関係ではあり得ないという冷厳な事実が、これほどまでに明確な形で突きつけられたことはかつてなかった 。
2026年4月、政府は外国為替及び外国貿易法(外為法)に基づき、アジア系投資ファンドMBKによる牧野への株式公開買付け(TOB)に対し、異例の中止勧告を発出した 。結果として、約2500億円規模に上ったこの巨大な買収劇は、同月末にMBK側が買収を断念する形で幕を閉じることとなった 。
事の発端は2024年末、モーター大手・ニデックによるTOBの試みであった 。独立維持を図る牧野側が防衛策を発動して反発する中、ホワイトナイト(友好的買収者)として名乗りを上げたのがMBKである 。一見すると、資本市場における正当な企業防衛とファンドによる救済という、純粋な経済活動の帰結に思われた 。しかし、牧野が製造する高性能な五軸制御マシニングセンタ(多軸工作機械)や放電加工機は、軍事転用の可能性が高い機微な貨物に該当する 。日本の防衛装備品製造にも不可欠な重要技術の流出を危惧した政府は、経済安全保障上の懸念から介入に踏み切ったのである 。
2025年の日本企業が関わるM&A(合併・買収)は、約33兆円に上り、7年ぶりに過去最高を更新した 。国巨(ヤゲオ)によるサーミスタ製造のトップ企業・芝浦電子に対する買収成立や、アリマンタシォン・クシュタール(ACT)によるセブン&アイ・ホールディングス(セブン&アイ)への買収提案など、外資からの買収提案は表に出るだけでも急増している 。こうした中で起きた牧野-MBKの事例は、単なる一企業の買収劇にとどまらず、国家と市場との新たな境界線を引く試金石となった。我々は、制度と企業統治の両面から、この現実をどう受け止めるべきか、深く問い直さなければならない 。
「安い日本」と技術の過小評価という本質的脆弱性
外資による買収動機が後を絶たない最大の理由は、「日本には独自技術や高い技術を持つ企業が多いのに、株価がそれほど高くない」という点に尽きる 。日本の強みである技術をはじめとする無形資産が、市場において過小評価されているのである 。
とりわけ、安全保障に関わる高い技術を保有しながらも、企業価値が100億円を切るような中堅企業は、買い手から見れば「安くてうまい」格好の標的となりやすい 。サプライチェーンを構成する中堅・中小企業が持つニッチ技術、特許の束、製造ノウハウ、熟練労働、顧客データといった価値は株価に反映されにくい 。安全保障の世界には「弱い輪」が狙われるという常識があるが、これらの無形資産は一度奪われれば決して取り返しがつかない 。今回の牧野は時価総額の比較的大きな企業であったが、日本市場全体に横たわる「技術の過小評価」という脆弱な構造が、外資の触手を惹きつけている事実に変わりはない 。
外為法の「一本足打法」に依存する危うさ
こうした外資の攻勢に対し、経済安全保障の観点から防波堤となるのが外為法による投資審査である 。2020年施行の法改正により、外国資本による対内直接投資で事前届出を必要とする出資比率の閾値が10%から1%へと引き下げられ、一定の抑止力として機能していることは評価できる 。
しかしながら、日本企業を狙う外資の動きを、外為法という「一本足」だけで守りきれると考えるのは幻想である 。外為法は本来、国際収支や対外取引の管理を基調とするものであり、決して万能ではない 。前述の戦略的に不可欠な技術を保有する牧野に対する事案や、かつてのJ-POWER(電源開発株式会社)に対する投資ファンド・ザ・チルドレンズ・インベストメント・ファンド(TCI)の買い増しに対し、政府が中止命令を下した事案のように、国策に言わば直結する企業であれば強力な介入も可能であろう 。もっとも、全ての案件に対して政府に同等の介入を求めることは、不可能を強いることに等しい 。
一方で、むやみに「買収は悪だ」「外資は敵だ」と短絡し、国家があらゆる案件に過剰介入することは厳に慎むべきである 。市場による価値創造の歪みやモラルハザードの蔓延、資本配分の非効率化を招き、外国投資家からの信頼を失墜させれば、健全な資本主義そのものを破壊しかねないからだ 。市場の機能を最大限に活かしつつ、守るべきものを守るという、矛盾を抱えた高度な線引きこそが求められているのである 。
法制度の非対称性と「同盟国ファンド」の罠
グローバルな視点で見れば、日本の法制度には未だ隙がある。セブン&アイの買収提案においては、二国間の制度上の非対称性が浮き彫りとなった 。例えばACTの母国はカナダであるが、その「カナダ投資法」では、安全保障関連の審査だけでなく、カナダにとっての「純便益(Net Benefit)」の有無を問う審査も行われる 。さらに、世論の圧力を背景に「食料安全保障」を根拠とした国家安全保障審査がなされる可能性もある 。総じてカナダの外資規制は日本より厳しいのが実態だ。経済安全保障の裾野が半導体や軍事技術から生活基盤へと広がる中、日本の制度もまた時代の要請に従って不断の見直しを図り、諸外国とのイコール・フッティング(同等な競争条件)を整備する必要がある 。
さらに、厄介なのは、資本の出自である。経済安全保障が最も難航するのは、同盟国や友好国の資本が絡む局面だ 。名義上は友好国籍のファンドであっても、実際に資金を出している「背後」に懸念国の資金が混じっていることは珍しくない 。これを見抜くための官民のインテリジェンス能力の強化が急務だ。かかる情報を集約して、国家安全保障当局との間で二次審査へと繋げる「日本版CFIUS(対日外国投資委員会)」の設置は、こうした時代の要請の当然の帰結に他ならない。
そして何より、同盟国の資本だから「味方」であると決めつけることは危険である 。投資ファンドの最終的な目的は、エグジット(投資回収)において企業を高く売却することだ 。入り口の審査で米国やアジア系の友好的なファンドに買収を認めたとしても、数年後の売却先が懸念国であれば、技術は容易に流出する 。ファンドによる買収を認めるのであれば、再売却制限や重要技術の取り扱いなど、最終エグジットの管理こそがクリティカルな課題となる 。投資は点ではなくプロセスであり、出口までの全期間を管理対象としなければ意味がないのだ 。
こうした認識はすでに法制度として結実しつつある。2026年5月、改正外為法が成立し、日本版CFIUSの創設、間接取得規制の導入、そしてリスク軽減措置の届出義務化等が法制化された。制度の骨格は整った。今後問われるのはその実効性である。
規制だけでなく「救済とファイナンス」の設計を
企業を守るためには「規制」という盾だけでは不十分である。適正な資本供給がなければ、いくら国が鍵を掛けても、家(企業)そのものが倒れてしまう 。株式市場で過小評価され、買収の脅威に晒される企業に対し、公からの規制だけでなく、民間からの資本形成やファイナンスを含む「救済」の選択肢が不可欠である 。
国も「国家安全保障戦略」や「骨太方針」において、重要な物資や技術を担う民間企業への資本強化など、非市場的要因によるリスクへの支援策を検討し始めている 。前述のとおり救済は経営の緊張を緩めるため、モラルハザードを招く危険を伴う。一方で、救済を放棄すれば技術流出の甚大なコストを国家が支払うことになる 。限られた国の支援に漏れる多数のケースにおいては、民から民へのファイナンスを支援する民間の経済安全保障を目的とするファンドが重要な役割を果たすべきである 。
ステークホルダーとしての「国家」と企業の自律
これからの時代、企業統治(コーポレートガバナンス)の在り方も根本から変わらざるを得ない。かつての「企業は株主のもの」という株主第一主義から、すべての関係者に説明責任を負うステークホルダー資本主義へと移行する中で、企業を成り立たせる制度そのものである「国家」もまた、重要なステークホルダーとして位置付けられるべきである 。
企業はもはや、外部からの規制を受け身で待つだけでは生き残れない。経済安全保障を自らの経営の中に「ビルトイン(統合)」することが求められている 。これは単に法務部が外為法の手続を処理するといったレベルの話ではない 。技術と供給網の保全、資本政策、M&A方針、インテリジェンス、サイバーセキュリティから同盟国協力、買収後の出口管理に至るまで、企業の「基本設計」として経済安全保障を織り込む必要があるのだ 。
牧野の事例は、相対的に割安な日本企業が買収ターゲットになっているM&Aの現場でも経済安全保障が不可避かつ奥深く入り込んできた現実を、我々に強く印象付けた。企業は自社の価値のうち「株価に反映されない部分」は何かを見極め、それを守るために規制以外にどのような資本や契約の手当てを行っているか、自律的に備えなければならない 。
同時に国家も、ただ禁止や規制を行うだけでなく、企業の育成や救済、公平な競争条件の回復に責任を負う覚悟が必要だ 。株主第一主義とステークホルダー資本主義の相克、開放と防御の両立という二律背反を抱えながら、これらを制度と企業統治の内部に注意深く折り畳んでいくこと 。それこそ、我が国が戦略的不可欠性を維持しつつ、企業が未曾有のM&A時代を生き抜くために求められる共同作業に他ならない。
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