ホルムズ海峡の事実上の封鎖が続く中、日本のエネルギー安全保障はどこまで備えられていたのか。前回は、海峡封鎖がサウジアラビアの地政学的優位性を浮かび上がらせていることを論じたが、連載第2回となる本稿では視点を日本に移し、この問いを正面から検討する。石油ショックの教訓として積み上げてきた制度は機能しているのか。そして、備蓄の外側にある供給網の脆弱性をどう見るべきか。サウジアラビア在住で中東・エネルギー専門家の玉木直季氏が多角的に論じる。
ポイント
- 日本のエネルギー安全保障には、太平洋戦争へ至る資源制約の記憶と、第一次・第二次石油ショックの記憶が重なっている。その教訓は、石油備蓄、省エネルギー、電源・燃料構成の多様化という制度に残っている。実際、日本は今も主要国の中で高い水準の石油備蓄を持つ。
- しかし今回の危機は、原油を燃料としてだけ見ていれば済む危機ではない。原油はナフサを通じて石油化学製品の原料にもなる。さらに肥料やアルミなど、湾岸諸国での生産に組み込まれた素材・中間財にも影響は及ぶ。その圧力は、代替調達、在庫負担、販売価格、企業の資金繰りへと波及していく。
- 問題は「石油は何日分あるか」だけではない。日本の産業が、どの原料を、どの海峡を通じて、どの価格で、どの程度代替可能な形で調達しているのか。さらに言えば、日本がどの産油国に、どのような権益と関係を持っているのかである。
志賀重昂が見た地図
日本のエネルギー安全保障の記憶は、1973年だけに始まるものではない。明治から大正にかけて、すでに海路と資源を国家の命脈として据えた地理学者・文明批評家がいた。志賀重昂(しが しげたか:1863-1927)である。志賀は樺太の経営において石油資源の重要性を指摘し、晩年には中東を訪ね、1924年にマスカットでタイムール・ビン・ファイサル国王に謁見している。中東を実地で踏査した日本人の先駆的存在であり、アラブと日本を結ぶパイオニア的な視座を持った人物であった。志賀が見ていたのは、領土拡張や帝国主義的な膨張論ではなかった。日本人がイスラム圏を知らず、資源の所在を知らず、海路の現実を知らないままでは、いずれ国の選択肢が狭まるという危機感であった。のちに出版された『知られざる国々』で志賀は、志ある者は早く回教系諸国を偵察し、十分な予備知識を得るべきだと説いた。イラク周辺では、石油が世界史を動かす時代の到来を見ていた。石油は黄金になる。その直感が、樺太を含む日本の領土内での資源探索を重んじる姿勢にもつながっていた。
その問題意識は、石油と海路を国家戦略の問題として捉える視線につながった。同書で志賀は、石油を断たれることが国を断つことにつながると警告した。やがて日本は、資源制約そのものが国家の進路を狭め、太平洋戦争への圧力となる現実に直面する。石油は、単に不足すると困る燃料ではなかった。外交、軍事、産業、海上交通のすべてを左右する条件であった。
石油の時代と自給率の逆説
経済も技術も現在のほうがはるかに発展しているにもかかわらず、エネルギーの自給率は戦前戦後よりも低い。この逆説は、数字を並べると際立つ。資源エネルギー庁の統計では、2024年度のエネルギー自給率(IEAベース)は16.3%にとどまる。これに対し、戦前から敗戦直後にかけての日本は、一次エネルギーの大宗を国内炭と水力で賄っていた。現在と同じ定義で単純比較することはできないが、1950年でさえ、石炭と水力を合わせれば一次エネルギー供給の8割強を占めていた。大づかみに言えば、当時のエネルギー自給率は8割規模だったのである。
ただし、それは日本が資源制約から自由であったことを意味しない。問題は、石油の比率がまだ低い段階でさえ、軍艦、航空機、自動車、機械化された産業を動かす燃料としての石油を外部に頼らざるを得なかった点にあった。国家の行動半径を決めていたのは、一次エネルギー全体ではなく、石油だった。日本は石油の時代に入るほど、自給率を下げ、海路への依存を深めていったのである。
1973年の第一次石油ショックは、その長い記憶が戦後の制度として表面化した出来事であった。中東戦争を背景に、OPEC加盟国を含むアラブ産油国は、禁輸、減産、価格引き上げを通じて、石油が市場商品であると同時に「政治的な力」でもあることを示した。原油価格は急騰し、日本国内では物価上昇と買い占め騒動が生じた。1979年の第二次石油ショックでは、イラン革命とその後の混乱が再び供給不安を生んだ。日本はこの二度の衝撃を通じて、石油を市場に任せれば足りる燃料としてではなく、国家の生命線として再び扱うようになった。
その後、日本は石油備蓄制度を整え、省エネルギーを進め、石油火力への依存を下げ、原子力、LNG、石炭、再生可能エネルギーを組み合わせる政策へ動いた。資源エネルギー庁の資料が示すように、日本は1975年に石油備蓄法を制定し、国家備蓄と民間備蓄を積み上げてきた。この意味では、石油ショックの教訓は忘れられていない。
しかし、制度が残っていることと、現在の危機に十分対応できることは同じではない。1970年代の日本が直面したのは、主として原油価格と原油供給の危機であった。今回のホルムズ危機は、原油だけでなく、石油製品、石油化学、肥料、金属、食品、物流、在庫、資金繰りにまたがる。石油ショックの記憶は重要である。しかし、その記憶だけで現在の供給網を説明するには、世界は複雑になりすぎた。
備蓄は時間を買う、構造は変えない
日本には石油備蓄がある。2026年3月末時点で、国家備蓄、民間備蓄、産油国共同備蓄を合わせた石油備蓄は、石油備蓄法基準で233日分、IEA基準で197日分とされる。国家備蓄だけでも146日分がある。さらに政府は、現下の中東情勢を踏まえ、2026年3月26日以降、国家備蓄と産油国共同備蓄の放出を進めている。
この備蓄の意義は大きい。危機が起きた直後に国内の精製所や販売網が止まらないようにし、企業と政府が代替調達を進める時間をつくる機能を果たす。資源エネルギー庁の説明によれば、2026年5月の資料で、4月調達分では代替調達が約25%だったのに対し、5月分は約6割、6月分は約7割以上について目途が立ったとされている。中東や米国に加え、中南米、アジア太平洋、中央アジア、アフリカへ調達先を広げる動きも進んでいる。
しかし、ここで一つ線を引く必要がある。備蓄は時間を買う制度であって、産業構造そのものを変える制度ではない。タンクの中に原油があっても、必要な油種と精製設備が合わなければ、直ちに目的の製品になるわけではない。国内でガソリンや軽油を供給できても、ナフサや化学原料、特殊な樹脂、塗料、包装材、半導体関連の溶剤まで滑らかに回るとは限らない。
危機が数週間で終わるなら、日本経済への影響は原油価格、為替、在庫調整の問題として扱える。しかし、数カ月単位で長引く場合、様相は変わる。備蓄は危機の入口では機能する。だが、危機が長引くほど、企業は在庫、代替調達、契約、資金繰り、操業計画、販売価格の順に現実と向き合うことになる。
失われた日の丸油田、つないだ日の丸油田
日本のエネルギー安全保障を考えるとき、備蓄と並んで重要なのが上流権益である。日本はこの点で、苦い経験を持っている。サウジアラビアとクウェートの国境付近、カフジ沖には、かつてアラビア石油が保有する「日の丸油田」があった。アラビア石油が1960年に発見し、1961年から生産を開始した油田であり、サウジ側の権益は2000年に失効した。
当時は油価が低迷していた。石油は長期権益を持たなくても、国際市場でスポット調達できるコモディティだという見方が、日本の政策当局や産業界の一部に広がっていた。今から見れば危うい認識であるが、当時の市場環境では、そう考えることにも一定の合理性があった。問題は、低油価の時代に下した判断が、高油価の時代にも影響を及ぼし続けることである。
「石油は市場で買えるもの」と見た瞬間、上流権益を持つことの意味は薄く見える。だが資源は、安い時には商品に見え、高い時には政治に戻る。その後、原油価格は2008年7月に1バレル147ドル台まで上昇した。石油は、いつでも安く買えるただのコモディティではなかった。
カフジを失った後、日本はイランのアザデガン油田に活路を求めた。ハタミ政権下のイランは国際社会との関係改善を模索しており、日本にとっても、失われた中東上流権益を補う好機に見えた。しかしこの試みも、米国の対イラン制裁と国際政治の変化に押され、最終的には後退した。日本の大手石油・天然ガス開発会社INPEXは2010年、アザデガン油田開発事業から撤退することでイラン側と合意した。
一方で、UAEのアブダビでは別の戦いが続いた。アブダビの油田権益は、日本に残された数少ない上流権益であり、その更改は単なる商談ではなかった。国際協力銀行(JBIC)による資源金融、政府間関係、企業の操業実績、そして文化外交を組み合わせながら、日本は権益の維持に動いた。そして2007年にはJBICがアブダビ国営石油会社(ADNOC)との間で、総額30億ドルを限度とする融資契約を締結した。その後もADNOC向け融資は繰り返され、日本の原油安定調達を支える金融上の基盤となった。
イランのアザデガン、そしてアブダビの権益更改に関わる現場では、石油は単に価格で買う商品ではなかった。ファイナンス、国家間の信頼、相手国の開発課題、企業の操業能力、首脳外交、文化的な敬意。そのすべてが、1バレルにつながっていた。カフジで失ったもの、アザデガンで取り切れなかったもの、アブダビでつないできたものは、いずれも「原油をどう調達するか」だけではなく、「資源国とどのような関係を持つか」という問いに属しているのである。
ナフサという弱点
原油は燃料であると同時に、原料でもある。精製され、ガソリンや軽油になるだけではない。ナフサを通じて、プラスチック、合成繊維、合成ゴム、塗料、接着剤、包装材、医療用品、建材の原料にもなる。今回の危機で、日本の弱点を最も早く映したのは、そのナフサであった。原油価格のニュースには市場が慣れている。だが、包装材が足りない、塗料や溶剤の手当てが難しい、化学品の出荷が読みづらいとなると、危機は一気に生活と製造現場の問題となる。
石油化学工業協会によれば、2024年の日本のナフサ輸入では、中東が輸入量の73.6%を占めていた。UAE、クウェート、カタール、サウジアラビアからの輸入だけで、その大部分を占める。原油の備蓄が厚くても、ナフサの供給網が詰まれば、石油化学は別の場所からきしみ始める。
政府と業界も手をこまねいているわけではない。石油化学工業協会は、2026年4月の生産・出荷実績に関するコメントで、国内石油精製からのナフサ調達、中東以外からの代替調達、製品在庫の活用により、供給継続に努めていると説明した。主要石油化学製品の在庫も、直ちに供給困難となる状況ではないとしている。一方で、エチレンの実質稼働率は4月に67.3%にとどまり、前年同月を大きく下回った。
ここに、今回の危機の性格が表れている。政府の統計では「足りている」。業界の現場では「回している」。しかし個別企業や末端の流通では、「いつ、いくらで、どの品質のものが入るか」が見えにくくなる。危機は、全国一律に停電するような形ではなく、まず小さな品目、薄い在庫、代替の利かない材料に現れる。
肥料・アルミ・資金繰りへの波及
ホルムズ海峡を通るのは原油だけではない。LNG、石油製品、ナフサ、肥料、化学品、アルミなども、この海峡の安定を前提に国際供給網へ組み込まれてきた。湾岸地域は、安価なエネルギーを背景に、石油化学、アンモニア・尿素、アルミ製錬などでも存在感を高めてきたのだ。この結果、ホルムズ海峡の混乱は、原油やLNGにとどまらず、下流・派生品の供給リスクにも波及する。海峡が機能を落とすと、影響は上流から下流へ広がる。
肥料はその典型である。カタールやサウジアラビアを中心とする湾岸地域は、アンモニアや尿素の重要な供給地である。肥料価格が上がれば、食料価格に遅れて波及する。食料自給率の低い日本にとって、これは遠い国の農業問題ではない。エネルギー価格、肥料価格、海上運賃、為替が同じ方向に動けば、食品価格は複数の経路から押し上げられる。
アルミも同様である。湾岸諸国は安価な電力を背景に、アルミ新地金や合金製品の供給地として存在感を増してきた。ただし、アルミ製錬は電力だけで完結するわけではない。ボーキサイトやアルミナなどの原料を外部から運び込み、湾岸の安価な電力で製錬することで成り立っている。ホルムズの機能が落ちれば、製品を外へ出しにくくなるだけでなく、原料を中へ入れることも難しくなる。新地金は代替調達が比較的容易であるとしても、合金製品には仕様や品質の制約がある。自動車、建材、電機、包装材に使われる素材は、単に「別の国から買えばよい」とはならない。
危機は企業の資金繰りにも入り込む。UAEの食品・消費財企業IFFCOの再建問題は、一つの象徴である。報道によれば、ドバイを拠点とする同社は約20億ドルの債務を抱え、暫定清算を通じた再建手続きに向かった。これをホルムズ危機だけの結果と見るべきではない。しかし、物流費、保険料、在庫、借入コストが同時に上がると、もともと負債を抱えた企業から先に圧力がかかる。地政学リスクは、港湾やタンカーだけでなく、企業の財務諸表にも現れる。
教訓は活かされたのか
では、これらの教訓は活かされたのか。答えは、単純なイエスでもノーでもない。日本は学んだ。備蓄制度を持ち、省エネルギーを進め、危機時に政府と企業が代替調達へ動く仕組みを持っている。アブダビの上流権益も、ファイナンス、政府間関係、実績、文化の相互理解を組み合わせながら、細い糸を切らさずにつないできた。
しかし、学び切れなかった部分もある。低油価の時代には、カフジのような長期権益の意味が見えにくくなった。そして今日、日本の供給網はなおペルシャ湾に深く依存している。2025年の日本の原油輸入では、UAEが43.3%、サウジアラビアが39.3%を占め、中東依存度は約94%に達した。かつて一定割合を占めていたイラン原油は、米国の対イラン制裁再開後、日本の調達先からほぼ消えた。調達先は多角化されたように見えて、実際には湾岸の数カ国へ集約されていた。
問題は、備蓄の外側にある供給網の脆弱性である。誰の油田に、どのような関係で関わっているのか。原油を引き取れるのか。タンカーは通れるのか。製油所は必要な油種を処理できるのか。そこから先に、ナフサ、石油化学、肥料、アルミ、食品、包装材、物流費、保険料が続く。最後には、在庫負担、販売価格、企業の資金繰りにたどり着く。今回の危機は、上流権益、航路、精製、素材、物流、企業財務が一本の線でつながっていることを改めて示している。
日本に必要なのは、「中東依存をやめる」という単純な話ではない。日本の産業は、今後もサウジ、UAE、カタール、クウェートとの関係を必要とする。むしろ問うべきは、依存の質である。どの国と、どの資源で、どのルートを使い、どの程度の代替余地を持つのか。米国からの輸入拡大は、その一案にすぎない。将来的には、イランの新しい体制から原油を仕入れることも、今回の経験を契機にロシア極東からの調達を増やすことも、政治的には難しいが検討対象から外すべきではない。現実的には、中東諸国にまたがる燃料・原料・素材供給網から一気に離れることは難しい。だからこそ、中東外交を続けながら調達先の選択肢を広げる必要がある。資源国との関係を、単なる売り買いではなく、投資、備蓄、港湾、資源金融、技術協力まで含む関係として構築できるのか。
ホルムズ危機は、日本に古い課題を新しい形で突きつけている。太平洋戦争へ至る過程で、日本は資源制約が国家の進路を狭める現実を思い知らされた。石油ショックを経て、その記憶は備蓄という制度に形を変えて残った。しかし、供給網が複雑化した時代に必要なのは、備蓄だけではない。危機に耐える力ではなく、危機が来たときに選択肢を持つ力である。志賀重昂が見ようとしたのは、遠い異国そのものではなく、日本の命脈がどの海路とどの資源に結ばれているのかという問いだった。百年後のホルムズ危機は、その問いを別の形で日本に突き返している。そして次に問われるのは、その選択肢を支える安全保障を、誰に、どこまで委ねるのかである。
*本稿の内容は筆者の個人的見解であり、所属組織を含め、いかなる組織の見解を表すものではありません。
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